■砂丘林にて■

冬のサロベツ原野は平漠な雪原だった。夏に人をよぶ湿原の魅力は、平坦な雪の下に眠るように隠れている。人はだれもいない。雪原の上に風枯れの細い茎が、彼方までまばらに頭を出している。車は走っていたが、たとえそれが止まっていたとしても、この変哲のない北の風景の中に下り立つことはないだろう。いや名のある原野への失礼を恥じて、ひとりふたりは降りたってこの広い白の世界に視線を走らせたのかもいれない。

「今年は、春になったら木道を取り替えるんです」

「へえ。湿原だからやっぱり腐っていくんですねえ」

私はもう一度、左右に広がる原野に視線を送った。そして、視線のとまる雪の辺りに、夏歩いた木道がうずもれているかとも想像した。夏を思い出すことが冬の淋しい景色をおぎなった。

 砂丘林の中を路が行き、緩やかなカーブにかかった。黒灰色の林がゆっくりと後退してゆく。私は林の木々の梢のどこかに、或いは雪のうねの何処かに、いま車を走らせて見に行こうとしているあの大鳥がいるのではないかと思った。大鳥。すなわち冬、北の大陸から渡って来ているオオワシを、

「ぜひ、見せたいんです。あすの朝7時に迎えに行きますから」

と勧めてくれたのは、車を走らせている石川さんだった。帰札の汽車の時刻には間に合わせてくれるつもりなのだろう。昨夜の酒の酔をすっかり引かせて、彼は遣い慣れている鳥獣を探す視線を前方に送っていた。

 カーブの右手に、四、五十メートル程に開いて向こうまで延びる砂丘林の切れ目が近づいてきた。その開かれた白い地にチラリと目をやり、

「三月に皆でスキーでここを歩くんです。沼も凍っています」

と石川さんは云った。日程も決まっているのだろう。野鳥の会の会員であることから推して、その皆とは彼の会の友達をいっているのだと思った。

「へえ、歩くスキーですか。いいなあ」

つい二、三年前まで、まだ小さかったわが子達と歩くスキーをやっていたことが思いうかんだ。さらには小学生の頃、雪に埋まった近くの原でスキーのリレーをしたことが、当時の友垣といっしょに思い出された。またあのように歩いてみたかった。

 ふと、石川さんの云った皆とは、実は野鳥の会ではなく、私たちと『水の詩』に出演するここの子供や大人なのだと思った。そして三月の、白い息を吐いてここを進んでいくかれらの歓声が聞こえてきた。この空き地のはるか彼方、点景から届く声だった。カーブは終わりにかかり砂丘林も過ぎた。あとは海沿いの広い雪原である。私には、歩くスキーについての余韻が残っていた。その余韻の中で、ひそかに三月の沼氷の堅さを疑った。

「三月でも氷は堅いんですか」

憶いをなかば隠して、感心するように言った。

「三月なら、まだまだ大丈夫です」

安心が来た時、車は海沿いの直線道路に入った。

 海からの強い風が黒い路上に、幾筋もの雪の糸を走らせていた。糸は這うように蛇行しながら滑走している。ほかには、今抜けてきた砂丘林を背にした雪原とずっと先までつづく小高いうねを左右に見るほか、何も映らなかった。

 はるか白筋のむこうに、対向車が小さく見えた。それが次第に近づきカーブですれ違ったとき、不意に海の波が目に入った。日本海だった。うねり寄せる波頭。今まで私の眼がとらえずにいたのは、冬の海を、暗灰色の色のないものとみなしていたせいに違いなかった。だがそれはちがった。そして眼に映る海がそんな厳寒な色ではなく、その内に萌黄な色を含んでいることに不思議な思いがした。

「あそこに、二羽います」

石川さんが車を止めた。

私達は緊張した。そして告げた先を見た。丸い雪のこぶに、たしかに鳥に見える黒い点が、間を置いて並んでいた。

 心が浮き立った。それがオオワシであるというだけで、その小さな点に心が躍った。車が少し動いてまた止まった。私達は、石川さんからそれぞれに渡されていた双眼鏡を覗いた。その拡大鏡の中で黒い点は大きくなり、黄色いくちばしがおもむろに反対方向を向く。それがレンズから外れて消えると、他のを求めて車はさらに先へ進んだ。直ぐに新しいグループが眼に入った。だが石川さんの迅い眼はすでに、大羽を広げ堂々と滑空するオオワシを見つけていた。

「あそこ、飛んでいます」

その石川さんの声で私たちは、波打ち近くの鋼色の寒空へ眼を上げた。その鳥の飛翔は、私の中にあった先入観を壊した。いちど地に浮いた大きな体躯が、羽ばたきを欠いたままで地平に戻されずにいるのだ。

 私たちはドアを開けた。雪上に降り立つ。風は刺すように痛かった。サロベツの冷たさだった。

 なぜ、あのような飛翔ができるのだろう。それは、鳥の王だからなのだろうか。鳥の王が白い紋様を織り込んだ黒羽と純白な尾羽をひとたび広げると、原野の時間はゆっくりな流れになり、オオワシは、もっとも弱い鳥でさえつくり出せないゆったりとした速さで、海上近い空を滑空した。これが、敵のいない王者の飛翔なのだ。

「やあ、すごい」

私たちは興奮していた。オオワシと知らなければ、無知な視力は荒涼と雪原の中で、何も見ずに凍結し終わったことだろう。

 だが、今わたしたちは、この鳥の一つひとつが愛しかった。彼らのくちばしの黄、背羽根にまじる白羽、幼鳥がつけていた小さな緑の標識、そして何よりもこの王者が大気からつかむ不思議な浮力。その浮力の不思議な秘密を解きたくて、私は何時までも、この寒空の中に立ったままでいた。